喜多院|川越・小江戸七福神めぐり第3番・大黒天

川越大師と親しまれ、1200年近い歴史をつむいできた天台宗川越大師喜多院。お堀やお池がある広大な境内には、重要文化財や有形文化財に指定されている建物や美術工芸品がいくつもあります。

毎年、正月三が日の初詣には多くの参拝客が訪れ、その他にもだるま市や節分会、小江戸川越菊まつりなど年間を通した行事が盛んに行われています。

ご本堂には、ご本尊として阿弥陀如来、その脇侍として不動明王、毘沙門天が安置されています。

また七福神の財宝の神様、大黒天が祀られており、小江戸川越七福神を祀るお寺では最も大きいな寺院でもあります。

七福神めぐりの第二番天然寺からは徒歩15分です。

喜多院:施設概要

喜多院の歴史は長く、古い伝承によると奈良時代までさかのぼり、海水で満ちていた仙波(せんば)周辺を仏法の不思議な力で海水を除き尊像を安置したことがはじまり、という言い伝えが残っています。

それから少し時が経った平安時代、830年(天長7年)に淳和天皇が国家鎮護などのために、慈覚大師円仁に命じて創建されたのが現在の喜多院につながっていきます。

当初は「無量寿寺」という名で、ご本尊に阿弥陀如来、脇侍として不動明王、毘沙門天などをお祀りしてきました。

創建から現在まで2度の兵火と、川越大火の合わせて3度の火事の被害にあっています。

1度目は1205年(元久2年) の兵火で炎上し、1296年(永仁4年) 伏見天皇の命によって、僧侶・尊海僧正が再興しました。

一時は衰退しましたが、仏地院(中院)を再建後、続いて仏像院(北院)、多聞院(南院)を再建。

寺院では天台宗の最高位までになった慈恵大師(元三大師)をお祀りし、関東の天台宗の中心になるまで盛り上げます。

その後、1537年(天文6年)に北条氏綱と上杉朝定の長い戦の最中に兵火によって2度目の炎上を経験。

それから数年後の1599(慶長4年)に将軍家の徳川家が深く敬っていた天海僧正が第27世の住職に就きます。

天海僧正は江戸時代の初代将軍の徳川家康公とも川越で親しく会うほどの人物でした。

天海僧正が住職になった際に寺号を喜多院という名に変え、また川越藩主になった酒井忠利も喜多院の再興に当たり、寺院の領地も拡大していきます。

しかし1638年(寛永15年)1月、川越大火が起きてしまいます。

その火事により、現在でも残っている山門を除いた堂の建物はすべて焼失してしまいましたが、被害を知った3代将軍徳川家光公はすぐさま堀田加賀守正盛に命じ、復興を進めました。

川越大火後の復興によって、江戸城紅葉山の別殿を、客殿や書院などとして移築させたものが現在でも残っており、多くの参拝者を迎え入れています。

Kitain have a history of over 1000 years.

According to legend, there was full of sea around these area but, the sea divided by power of Buddhism.

And then the principal image was enshrined in the place and it is said that how it all began.

Then time passed, by the order of Emperor Junna, the temple was built by Jikaku Daishi Ennin for spiritual protection of the state in 830(Heian period) The temple is connecting to present "Kitain"

In the first, the temple name was "Muryojyu Temple" and Amitabha Buddaha, Fudo Myoo and Vaisravana were enshrined.

The temple was fire in three times caused by war and a big fire "Kawagoe Taika"

Firstly, it was fire caused by war in 1205. Then buddhist priest "Sonkai" revived it by the order of Emperor Fushimi in1296.

The temple declined a moment, but Nakain(Middle Temple) , Kitain(North Temple), and Minamiin(South Temple) were rebuild.

At that time, "Jiedaishi" who became the top of Tendai sect is enshrined. Thereby the temple became the main temple of the Kanto region.

In 1537, the temple burned down caused by war between Hojo family and Uesugi family.

A few years later, "Tenkai" who has good friendship with the first Tokugawa shogun "Tokugawa Ieyasu" became a 27th chief priest of this temple.

Tenkai has changed the name of the temple to "Kitain" and feudal lord in Kawagoe "Sakai Tadatoshi" worked hard for rebuild.

Kitain expanded temple's territory.

However, in 1638, a big fire was happen in Kawagoe.

All building of Kitain except the temple gate were destroyed by fire, but the 3rd Tokugawa shogun "Tokugawa Iemitsu" has commanded reconstruction to Hotta Masamori.

Finally, remain of Edo Castle like guest hall (where is the Iemitsu was born) was relocated to Kitain and we can see the historical building even now.

喜多院の沿革や由緒

喜多院は徳川家と関係が深いお寺です。

歴史の概要でもあったように、天海僧正が喜多院の住職になった際に、徳川家康公が川越まで出向いて会うほど厚い信頼をおいていました。

その関係は徳川家康公が征夷大将軍になり江戸幕府を開いた頃までさかのぼります。

徳川家康公は、日本で大きな力を持っていた天台宗総本山の比叡山の荒廃と、内部争いに頭を悩ませていました。

その際に天海僧正の名が挙げられ、比叡山をまとめ復興にとり組むよう命じます。

その後、実際に天海僧正に対面しその人柄にさらなる信頼をおくようになったのです。

1616年(元和2年)には徳川家康公が亡くなりましたが、現在の静岡県・久能山に葬られたのち、一周忌を迎えた折に関東の栃木県・日光の東照社に分霊されました。

その久能山から日光に移される間の数日間に、所縁のあった天海僧正が中心となり喜多院にて大法要を行ったことが歴史に残っています。

江戸幕府の初代将軍徳川家康公からのご縁により、1638年の川越大火の際には3代将軍徳川家光公が尽力し、江戸城の別殿「徳川家光 誕生の間」を書院、春日局化粧の間を客殿として移築されました。

現在の喜多院には天海僧正を祀るお堂があり、慈眼堂の名で国指定重要文化財にも指定されています。

徳川家と天海僧正のご縁が、現在でも貴重な文化遺産を後世に残すことにつながっているのです。

喜多院のご本尊

喜多院ではご本尊として阿弥陀如来、その脇侍として不動明王、毘沙門天を祀っています。

サンスクリット語では、量り知れない光を持つ者という意味のアミターバ、または量り知れない寿命を持つ者の意味のアミターユスの名で、後者は漢字で無量寿仏と書きます。

その阿弥陀如来を表す無量寿仏から無量寿寺という寺名で創設され、現在の喜多院になりました。

七福神では大黒天がお祀りされています。

喜多院・本堂の右手にお堂があり、そのお姿は頭巾をかぶり右手には打出の小槌を、左手には大きな袋を背負った姿で米俵の上に立っています。

打出の小槌は日本の昔話などでも頻繁に登場しますが、振るとさまざまなものが出てくるという伝説があります。

左手の大きな袋は七宝袋といって、七種の貴重な宝が入っていると言われており、どちらも富を表しています。

もとは古代インドの軍神や闇黒の神様でしたが、日本に伝わり室町時代ごろからは財宝の神様として知られるようになりました。

小江戸川越七福神めぐり 第三番 大黒天

七福神では大黒天がお祀りされています。

喜多院・本堂の右手にお堂があり、そのお姿は頭巾をかぶり右手には打出の小槌を、左手には大きな袋を背負った姿で米俵の上に立っています。

打出の小槌は日本の昔話などでも頻繁に登場しますが、振るとさまざまなものが出てくるという伝説があります。

左手の大きな袋は七宝袋といって、七種の貴重な宝が入っていると言われており、どちらも富を表しています。

もとは古代インドの軍神や闇黒の神様でしたが、日本に伝わり室町時代ごろからは財宝の神様として知られるようになりました。

喜多院のご利益

阿弥陀如来は現世安穏や極楽往生のご利益があると信じられています。

また七福神の大黒天は、財宝の神様として財運をはじめ、縁結びなど、富に関するご利益があります。

「黒くなってマメに働き大黒天を拝むと大福利益が得られる」という有名な言葉もあります。

喜多院の見どころ

喜多院には、国や県から指定された重要文化財や有形文化財が盛りだくさんで見どころの宝庫です。

現存する建物から、そこに伝わる不思議な伝承話や経緯も多くあります。

歩いて、見て、聞いて、喜多院の奥深さを体験してみてください。

客殿(徳川家光公 誕生の間) 国指定重要文化財

喜多院にある客殿、書院、庫裏(くり)は1638年(寛永15年)1月の川越大火で大きな被害を受けた喜多院に、3代将軍徳川家光公が復興のため江戸城紅葉山、現在の皇居にあった別殿を移築させたものです。

客殿には異なる大きさの部屋が6室ありますが、そのうちの12畳半の一室は上段の間です。

まだ江戸城にあった時に、この上段の間で3代将軍徳川家光公が生まれました。

部屋を見渡してみると、床との違い棚や、襖や壁に墨絵で描かれた山水、上を見上げると81枚の彩られた花模様が天井に敷きつめられています。

上段の間以外の部屋では、華やかな鳳凰と桐の壁画が設けられた仏間の一室もあり、歴史と江戸時代の文化を体感することができます。

書院(春日局 化粧の間) 国指定重要文化財

客殿や庫裏とともに江戸城紅葉山、現在の皇居の別殿から移築され、江戸時代から現存する書院です。

8畳と12畳の部屋が2室ずつあり、8畳の部屋は喜多院に移築する前に江戸城にまだあった時、徳川家光公の乳母・春日局が使っていた部屋でした。

そのことが由来となって、今でも「春日局化粧の間」として呼ばれています。

慈恵堂 県指定有形文化財

慈恵堂

大師堂または潮音殿としても呼ばれ、現在は喜多院の本堂として使われています。

比叡山延暦寺で第18代座主、つまり天台宗で最も高い地位になった慈恵大師良源(元三大師)を祀るお堂で、中央に慈恵大師、左右に不動明王がお祀りされています。

潮音殿という名は、喜多院に残る伝承のひとつで、昔この広いお堂の中で正座していると、静かなはずのお堂の中でザザザーという潮の音が聞こえたという不思議な言い伝えから名付けられました。

慈恵堂は1639年(寛永16年)、川越大火の被害に合いましたが、わずか翌年に他よりも早く再建されました。

その後は昭和46年度から4年間をかけて解体修理が行われ、近世初期の本堂を現在に伝えるとても貴重な建物として埼玉県の指定有形文化財として大切にされています。

またお堂の中にも国指定重要文化財として指定されている貴重な文化財があります。

1300年(正安2年)に造られた銅鐘で、世界の平和と人々の安泰を願い除夜の鐘として年に一度だけ、その音を聞くことができます。

多宝塔 県指定有形文化財

多宝塔

多宝塔とは、鮮やかな朱色に彩られた高さ13mの塔です。

江戸時代初期らしい姿を今でも残しており、天辺の屋根は宝形造り、上層の建物は円形、下層は方形になっています。

1639年(寛永16年) に、山門と日枝神社の間には古墳があり、その古墳の上に建てたのがはじまりです。

老朽化のために1910年に慈恵堂と庫裏玄関の間の渡り廊下の中央部に移築されましたが、移築前とはがらりと違う造りに改造されました。

そして数十年後の1973年に、現在の場所に移築する際に解体修理を行い、当初の姿を見事に復元しました。

五百羅漢

すべて合わせて538体もの羅漢さまが建立されている名所です。壮大な規模から日本三大羅漢のひとつとしても知られています。

数の多さにも驚かされますが、何と言ってもひとつとして同じものがない羅漢さまの表情や様子が見どころでしょう。

笑っている顔や泣いている顔、ヒソヒソと内緒話をしている様子、動物を従えている羅漢さまもいます。

なぜこんなにも集められたのかというと、川越北田島の志誠(しじょう)という人の願いが発端となり、1782年から1825年の50年という歳月を重ねて、この喜多院に建立されたためです。

五百羅漢にはある言い伝えがあります。

深夜に人知れず羅漢さまの頭を撫でてみると、ひとつだけ必ず温かく感じるものがあり、その羅漢さまは亡くなった親の顔に似ているのだという話が残っています。

初大師とだるま市

初大師とは、正月3日の厄除元三大師(がんざんだいし)のご縁日のことを示しています。

新しい年のはじめという意味の「初」に、「大師」とは慈恵大師のことですが、慈恵大師が正月3日に涅槃に迎えられたため別称として元三大師とも呼ばれています。

大師は修行されていた頃、人々を神秘奇跡により悩みや苦しみから救ってきたことから厄難削除の信仰を集めていました。

初大師の日には、不動護摩供(ふどうごまく)という厳粛な儀式で、開運厄除、家内安全、所願成就を祈願するのが慣わしとなっています。

また、七転八起の縁起の良いだるま市が境内で開かれ、新しい年の縁起物としてだるまを求める人が訪れます。

秋の七草 萩

7~10月ごろに喜多院に訪れると、秋の七草・萩を喜多院の境内の土産屋のあたりで目にすることができます。

赤紫色の蝶形の花で、山野に咲くことが多く、日本では万葉集によく登場する花としても知られています。

喜多院のお守り・ご朱印について

喜多院では、川越大師のご朱印、関東三十六不動霊場のご朱印、川越七福神のご朱印がいただけます。

川越大師のご朱印は本堂にて、関東三十六不動霊場のご朱印、川越七福神のご朱印は拝観受付近くの庫裏・寺務所にてそれぞれ受付しています。

ご朱印の他には護符もいただくことができます。

喜多院の護符は、世間一般に角大師(つのだいし)と豆大師(まめだいし)と呼ばれているものがあります。

角大師の護符は魔除けとして知られています。

その護符には鬼のようなお姿が描かれており、いかにも災厄から守ってくれそうな見た目です。

この鬼のようなお姿は慈恵大師良源です。

疫病などを起こし人間を苦しめる疫鬼(えきき)が大師の前に現れましたが、大師が夜叉の姿になり厳しく非難し、疫鬼はすぐ逃げ出しました。

この時の姿を鏡で見て書き写し、これで災いをはらうことができるであろうと宣誓したことから、この鬼のような護符ができました。

もうひとつの豆大師は、観音様の化身とも言われている慈恵大師良源を写した姿を三十三体をおしたもので、災難除けの意味があります。

喜多院の駐車場

喜多院の駐車場

喜多院には喜多院横に大きな有料大駐車場があります。

ただお正月などはこの駐車場を先頭に大渋滞が毎年起きていますので、できるだけ三が日は電車、バスなどの公共機関での来場が良いと思います。

駐車名 明星駐車場
駐車台数 133台
営業時間
  • 9:00-16:30(3月1日-11月23日)
  • 9:00-16:00(11月24日-2月末日)
駐車料金
  • 一般乗用 3時間まで500円
  • 大型車両(観光バス等)2時間まで1,000円
備考
  • 入車は、閉場時間の30分前まで
  • 1/3は交通規制の為、明星駐車場は休業

喜多院:アクセス

東武東上線・JR線「川越駅」下車徒歩約20分・東武東上線「川越市駅」下車徒歩約18分・西武新宿線「本川越駅」下車徒歩約15分

喜多院:各種情報

施設情報 喜多院
住所 〒350-0036 埼玉県川越市小仙波町1-20-1
電話番号 049-222-0859
料金 徳川家光公 誕生の間、春日局化粧の間 拝観料 大人400円 小・中学生150円 院内行事のある日は拝観を中止することがある
営業時間 拝観時間、期間が限られているので注意 【拝観時間】 3月18日~11月 平日8:50~4:30 日祝 同~4:45 12月~3月17日 平日8:50~4:00 日祝 同~4:15 お休み 12月25日~1月8日 2月2日~4日、4月2日~6日 4月下旬・宝物特別展開催日の前後日 8月16日
駐車場 有料
ウェブサイト 喜多院HP

まとめ

川越大師と呼ばれるほど、古くから川越の地の歴史と文化、その地域の人々に寄り添ってきたのが喜多院という存在です。

境内は広くて見どころも多いので、時間に余裕を持った計画を立てることをおすすめします。

また見どころのひとつである、「徳川家光公 誕生の間、春日局化粧の間」は拝観料が大人400円、小・中学生は150円が必要です。

拝観時間は季節や平日、日祝によって変わり、院内行事や一定の期間は拝観が中止になるので注意。

喜多院から次の七福神めぐり第四番、恵比寿天の成田山へは徒歩3分ほどで移動できます。